年表用語説明

有馬良橘

文久元年(1861)、和歌山藩奥医師有馬広徳の嫡子として生まれる。明治15年、海軍兵学校に入校。同21年に海軍少尉に任ぜられ、同29年から31年まで侍従武官をつとめた。日清戦争・日露戦争に従軍。日露戦争では連合艦隊参謀として旅順港閉塞作戦を立案、指揮官の一人として活躍した。大正元年9月の明治天皇大喪儀では、御霊柩供奉を奉仕。同8年、海軍大将に任ぜられ、昭和6年、一戸宮司の薨去を受けて、明治神宮第3代宮司に就任。宮司就任には、宮内省・内務省・陸軍省・海軍省間で慎重に選考した結果であり、侍従武官としての経歴は言うまでもなく、人格・閲歴においても優れ、至誠一貫の人物であったことが大きい。同年、有馬宮司は枢密顧問官にも就任したが、その他に、崎門会(昭和6年)、建武中興六百年記念会(昭和8年)、菊池氏勤皇顕彰会(昭和12年)、国民精神総動員運動中央連盟(昭和12年)の各会長、大日本青年団(昭和14年)の団長など、多くの役職も兼任し、戦前の国民運動の先頭に立って活動した。