年表用語説明

至誠館

昭和43年から昭和44年にかけて、東大安田講堂事件に象徴されるように、左翼学生らによる学園紛争が全国的に過激化した。そのような時代情勢の中で、戦後の神社神道界を護持することに挺身してきた葦津珍彦は、当時の混乱した世相に危機感を懐いていた。そして、かねてより御祭神の尚武の精神(「身にはよし 佩かずなるとも 剣太刀 とぎな忘れそ 大和心を」)の発揚が必要と考えていた甘露寺受長宮司・伊達巽権宮司と問題意識を共有し、かくして彼等は、明治神宮鎮座五十年祭の記念事業として、内苑に武道場を建設することを決意した。その理念は、武道教育を通じて、国家社会の為に有為な人材を育てるというものであった。かかる経緯の下に昭和48年10月10日竣功した武道場「至誠館」は、以来、弓道、剣道、柔道、合気道(鹿島神流武術)といった純粋な武道の修練の為の綜合武道場として、誠実なる人格の陶冶訓育を行い、以て国民の健全なる精神作興に寄与している。